オーウェルの動物農場を読んだ
いまさら書く必要があるのかわからないけどオーウェルの動物農場を読んだ。
以前から興味があったんだけど、なんとなく踏ん切りがつかなかったオーウェルの作品なんだけど、たまたまAmazonを見ていたら開高健が翻訳…おっと、開高健って書いてあるのを見た瞬間注文しましたよ。
動物農場についてはいまさら書くことはないのですが、付録の「G・オーウェルをめぐって」って開高健の文章がしびれる。
全276ページの本のうち140ページと半分以上が開高健のオーウェルについてあれこれ書いてあるんだけど、時折出てくる暗く、湿度の高い開高健らしい文章がすごくいい。
ベルを鳴らすたびに餌をあたえていたら、イヌはベルを鳴らすだけで唾を分泌するようになるが、これを飼いイヌと野良イヌについて実験してみると、飼いイヌはあっけなく条件づけられてしまうが、野良イヌははるかに時間がかかった(それとても時間の問題に過ぎないが…)。この現象を専門家たちは“自由反射”と呼ぶことにしたらしい。野良イヌはおそらくその多彩な放浪の記憶によって餌はかならずしも一つの条件だけで入手できるものではないと知っているため、限界状況のさなかでも、ベルに順応するのに時間がかかるというものであろうかと想像するわけだが、その時間だけが自由なのだという結論になる。このような事態が発生する以前に抵抗せよ、という叫びか、野良イヌになれ、というつぶやきしかないのだが、イヌはイヌなのだ。遅かれ早かれ唾をだすようになるのだ。
この文章の墨を飲んだかのような読後感。まさに開高健。
この開高健の「G・オーウェルをめぐって」の話の多くが1984年の話だったので1984年も合わせて読んだ。読んでいて思い出したのは米原 万里の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」。本気なのかどうかわからないけど、なんというかいろいろ矛盾を飛び越えられる自己暗示の滑稽さ。もっとも自分がおかしいときにおかしいとは気づけない悲しさ。そんな話と距離を置ければ滑稽でも、その環境下で冷静であることは悲惨。
主人公が真理省の役人として過去の党の発言と現在の状況の矛盾を修正して間違いがなかったようにする仕事をして党の権威を守っているという話を聞いて怖いと感じるか、滑稽と感じるか。よしかわは「外国のエロ本の局部を墨で塗りつぶす仕事(なんて本当にあるの?)みたいだ」くらいにし感じなかった。またテレスクリーンなる党の宣伝装置かつ監視カメラの説明を読んでも「これ、監視する側の人員どうするんだ?」なんて思っていたんだけど、まぁこの環境にいたら悲惨だわな。
まぁ、こうやって物語として一歩ひいてみていればそんな風に思えるかもしれないけど、その立場になれば物語に出てくる人たちのように受け入れられるのかな。1984年の中に出てくる「自由は屈従」って言葉の通り。
現在の日本は恵まれているような気がするけど、新しい概念が入ってきて「よくもまぁこんなひどい状態の生活をしていたよな」なんて数年後には考えているかもしれない。少し前は歩きタバコをしている人なんて当たり前にいたけど、最近そんな人を見るとギョッとするように。
なんてことを思ったりもしたけど、そんなことより1984年ってひたすら「全体主義が怖いですよ」って話かと思ったら途中から恋愛小説というか女性に溺れていろいろ踏み外して行くんだけど、ちょうどこのタイミングでPerfumeの新譜「TOKIMEKI LIGHTS」なんてときめいちゃう曲を聴いていて、なんか微妙に話にマッチする曲だったのでこの曲を聞くたびにオーウェルの1984年を思い出すなんて刷り込みがされてしまってすごく微妙な気分。
なんだか、よくわからない話になってきた。
とりあえず、開高健の本を久しぶりによんだらやっぱり湿度の高い文章ですごく良かったです。ってことで。